デュシャンの切り拓いた現代美術は、日本美術につながっている?
Text : 村田 真
キーワード: 東京国立博物館 / フィラデルフィア美術館 / マルセル・デュシャン / 現代美術
東京国立博物館(略して東博)で「デュシャン展」が開かれる、と聞いてびっくりした。
日本の古美術を専門とする博物館で、西洋の現代美術を?
それも、よりによって美術の概念をひっくり返してしまった革命児、マルセル・デュシャンを?
ことの次第は、デュシャンの主要作品を数多くコレクションするフィラデルフィア美術館が、彼の没後50年を記念するアジア太平洋向けの巡回展を企画し、かねてより交流のあった東博を日本での会場に選んだというわけ。
ただし東博で「デュシャン展」というとあまりに唐突だし、単に会場を貸しただけと見られかねないので、日本美術展を併催することにしたという。だから展覧会名の後半の「と日本美術」は、東博の矜持を表わしているのだ。
では、デュシャンとはいったい何者か?
以前イギリスで500人の美術関係者に、20世紀美術でもっとも影響力があり、ショッキングだった作品を選んでもらったところ、ピカソの《ゲルニカ》や《アヴィニョンの娘たち》、ウォーホルの《マリリン・モンロー》などを抑えて第1位に選ばれたのが、デュシャンの《泉》という作品だった。
確かに「ショッキング」だっただろう。なにしろこの《泉》、男子用便器に「R. MUTT 1917」と偽名のサインを入れただけの代物(白物でもある)だったのだから。それがなぜ「20世紀でもっとも影響力を持った作品」になったのか。
《泉》が最初に発表されたのは1917年、ニューヨークで開かれたアンデパンダン展だった。正確にいえば、発表する前に出品を拒否されてしまった。出品料さえ払えばどんな作品でも自由に出品できるはずのアンデパンダン展なのに、なぜ拒否されたのか。
理由はおそらく、便器を出すなんて不道徳だ、展覧会を汚す、お店で買った商品じゃないか、自分がつくったオリジナルではなく、大量生産品にすぎない……といったところか。
それに対してデュシャンは反論した。
「マット氏が自分の手で《泉》を制作したかどうかは重要ではない。彼はそれを選んだのだ。彼は日用品を選び、それを新しい主題と観点のもと、その有用性が消失するようにした。そのオブジェについての新しい思考を創造したのだ」と。
自分がつくったものではない日用品でも、芸術の文脈に採り込めば作品として成立するということだ。これを「レディメイドのオブジェ」という。いささか屁理屈にも聞こえるが、いまでは既製の日用品を美術に用いるのはごく当たり前に行われているのだから、デュシャンの勝利は明らかだろう。
こうしてデュシャン以降の現代美術は、見た目よりコンセプトが重視されるようになり、よくも悪くも目で見るものから頭で考えるものに変わってしまったのだ。
展覧会は第1部「デュシャン 人と作品」と、第2部「デュシャンの向こうに日本がみえる」に分かれている。第1部では、初期の油絵から《泉》などのレディメイド、大きなガラス板に描いた通称「大ガラス」、そして遺作(フィラデルフィア美術館に据え付けられているため、映像と関連作品・資料の展示)まで、代表作が勢ぞろい。といっても、レディメイドは当時のものが失われたため後に復元されたレプリカだし、大ガラスは日本で複製された東京ヴァージョン。オリジナルを重視しなかったデュシャンらしい展示といえる。
興味深いのは初期の油絵だ。10代のころの印象派風からセザンヌ風、キュビスム風と近代絵画の歴史を一気に駆け抜け、人体の動きを連続写真のように捉えた《階段を降りる裸体 No.2》にいたる。静止画像の絵画に「動き」を加えようとした挑戦的な試みだったが、ここで絵画の限界を感じ、制作を放棄してしまう。それと入れ替わるように登場したのがレディメイドのオブジェだ。つまり美術を視覚の楽しみから知的ゲームに変えてしまったのだ。
第2部に入ると一転、日本美術がデュシャンに関連づけて展示されている。
たとえば、伝千利休作《竹一重切花入 銘園城寺》と《泉》。この「花入れ」は竹筒に切込みを入れただけの簡素なもので、これ自体に美的価値はないが、それを花入れに用いることで価値を転換させた千利休の発想がデュシャンに近いというわけだ。
伝狩野孝信筆《酒呑童子絵巻 巻下》は《階段を降りる裸体 No.2》と比較されている。絵巻というのは右から左へ物語が進んでいくので、同一人物が何度も出てくるが、これを「異時同図法」という。《階段を降りる裸体 No.2》も動きを表わすため、人体を時間差で繰り返し描いている点で、異時同図法的表現といえる。
さらに俵屋宗達筆と狩野探幽筆の《龍図》2幅は、デュシャンの代表作を縮小コピーして箱に収めた通称《トランクの中の箱》と関連づけられている。その心は、日本では昔から個性やオリジナリティは尊ばれず、師匠や先達の作品を模倣(コピー)することで上達してきた点、オリジナルを否定し、コピーをいとわないデュシャンの考えと通じるというわけだ。
なるほど、デュシャンは西洋美術の約束事を打ち破って新たな地平を切り拓いた、と思ったら、古来の日本美術と周回遅れでつながってしまったというわけか。それなら東博でやる意義もあるし、西洋美術に引け目を感じてきた日本美術の溜飲も下がるはず。
でも残念ながらそれは牽強付会というもの。実は日本美術だけでなく西洋美術も同じで、異時同図法はルネサンスのころまで使われていたし、師匠や過去の巨匠の作品を模倣するのは、近世まで画家の卵が修業の一環としてごく普通に行っていたことだ。
デュシャンは近代絵画の限界に突き当たり、それを乗り超えようとしたら、そこに近代以前の風景が再び姿を現したというわけだ。その風景は東西を問わず、意外と変わらないのかもしれない。逆にいえば、近代以前の美術のほうが人類にとっては普遍的で、近代美術のほうが西洋のローカルな表現にすぎなかったともいえるだろう。
そんなことを気づかせてくれるのもデュシャンならではのこと。
*東京国立博物館平成館にて2018年12月9日(日)まで開催
Text: 村田 真 (むらた・まこと)
東京造形大学卒業。ぴあ編集部を経てフリーランスの美術ジャーナリストに。東京造形大学および慶應義塾大学非常勤講師、BankARTスクール校長を務める。おもな著書に『美術家になるには』(ぺりかん社)『アートのみかた』(BankART1929)など。