日本の芸術家が世界で認められるにはどうすればいいか?
これは明治以来、西洋に学んできた日本人画家にとって大きな課題であった。その答えの1つは、西洋絵画の技法を完璧にマスターし、美術の中心であるフランスのサロンに入選し、西洋美術史に名を刻むことだ。
明治時代、黒田清輝も五姓田義松もフランスに渡って油絵の技を磨き、サロンにも入選した。だが、西洋美術史に名を残すことなく帰国した。
なぜ名を残せなかったかといえば、いくら油絵がうまく描けても技術的によくできているというだけで、西洋の猿真似にすぎないからだ。
とりわけ手の器用な日本人は表面的な技術の習得に力を注ぎ、つい内容を置き去りにしてしまいがちだ。
そもそも西洋において絵画は、宗教や神話の教えを伝えるために発達してきた視覚装置。ところがキリスト教にもギリシャ神話にもなじみのない日本人は、上っ面を真似ることはできても、それを支える精神や文化まで自分のものにすることはできなかった。
もしそれをしようとするなら、日本人を捨てて西洋人になりきるしかないだろう。いや、もし西洋人になったとしても、それは出発点にすぎず、そこからいかにオリジナリティを出していくかが勝負になる。
ではどうすればいいのか?
もう1つの答えは、発想を逆転させ、日本の精神・文化を西洋の絵画技法で表現すること、つまり日本固有の美意識を油絵で描くことだ。一言でいえば「和魂洋才」。これなら西洋人には真似できないし、オリジナリティを発揮できるはずだ。
そして、実際にそれをやったのが藤田嗣治だった。
いま開かれている「没後50年 藤田嗣治展」を見ながら、そのプロセスをたどってみよう。

藤田は1886年、東京生れ。父は陸軍軍医という恵まれた家庭で、東京美術学校(現・東京藝術大学)を出てパリに留学。
というとエリートのように聞こえるが、実のところ学生時代は教授の黒田清輝に反発し、ビリから数えたほうが早い成績で卒業。パリ留学も画家の登竜門である「文展」に落選し続け、本場で一発逆転を狙ったからだ。
さて、留学したはいいが、翌年には第1次大戦が勃発。大半の日本人が帰国するなか、藤田は留まった。当時フランスには相当の日本人画家や留学生がいたが、彼らの多くは1、2年滞在してパリの風景やヌードを描き、「フランス留学」の肩書きを土産に帰国して「先生」に収まっていた。なかにはフランス語もろくに話せず、日本人仲間としか交わらないまま帰って来た画家もいたという。藤田が嫌ったのはこうした連中だ。
20世紀初めのパリにはピカソ、モディリアーニ、シャガールといった外国から来た画家たちがひしめき、しのぎを削っていた。藤田も、やがてエコール・ド・パリと呼ばれるようになる彼らと交流し、ピカソやモディリアーニとよく似た絵を描いた。同展にも出ている《キュビスム風静物》や《断崖の若いカップル》などがそれだ。

おそらく藤田も最初は西洋美術の作法にのっとり、モダンアートの流れに乗ろうとしたのだろう。
だが、彼はあるとき気づいたはずだ。日本人がパリに来て当世風の絵を描いたところで、流行を追うだけの三流画家にしかなれない。日本人画家が外国で成功するには、ほかの画家には描けない日本独自の美学を前面に出すしかないと。
こうして紆余曲折の末にたどりついたのが、「乳白色の下地」と呼ばれるスタイル。キャンバスに下地を塗り、面相筆で細く滑らかな輪郭線を引いた浮世絵のような女性ヌード画だ。この「乳白色の下地」の端緒となる作品を制作するのが、ちょうど第1次大戦の終結する1910年代末。このころから作品も売れ始め、サロンの会員にもなり、やがて20年代を通して画壇の寵児となっていく。
当時パリで認められるということは、世界的な画家として認められるということでもあった。
こうして藤田は日本人で初めて世界的に名を知られる画家になったのだ。

しかし1930年ごろになると、さすがに作品もマンネリ化し、折からの経済恐慌もあって人気に陰りが出てくる。そこで心機一転、南北アメリカを旅して凱旋帰国。もちろんパリでの活躍は日本にも伝わっていたが、海外での成功をやっかむ声も少なくなかった。
西洋の自由な空気に慣れた藤田にとって、村社会の日本はいささか窮屈だったかもしれない。そんなころ起きたのが日中戦争だ。西洋帰りの藤田が日本に忠誠心を示すには、戦争画を描くのがいちばんだった。
日米開戦後は戦争画にのめり込み、恐ろしいことに日本の敗戦が色濃くなるにつれ、藤田の筆はエスカレートしていった。同展に出ている《アッツ島玉砕》と《サイパン島同胞人臣を全うす》は、戦意高揚や戦争記録といった目的はどこへやら、凄惨な地獄絵と化している。ここにはかつての「乳白色の下地」は影さえも見られない。
ところで、戦争画は西洋では宗教画や神話画などと並んで、絵画のなかでもっとも価値の高い「物語画」のひとつに数えられる。実は、藤田の師である(よき師弟関係ではなかったが)黒田清輝が、日本に根づかせようとして果たせなかったものが「物語画」であった(黒田は「構想画」と呼んでいた)。だとすれば、皮肉なことに藤田は戦争画によって師の願いを果たしたともいえるのだ。
こうして「戦争画の巨匠」として人気を博した藤田だが、敗戦後は一転して戦争責任を問われ、美術界から追放に等しい扱いを受ける。失意のなか1949年に離日してフランスに永住し、再び日本に帰ることはなかった。
が、話はここで終わらない。彼は日本国籍を抜いてフランス人となり、カトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタを名乗り、最晩年には礼拝堂の内陣を宗教画で埋め尽くした。
最後にフジタは日本人を捨て、西洋人になりきったのだ。

【展覧会情報】
■東京都美術館企画展示室にて、10月8日(月・祝)まで開催。
■京都国立近代美術館にて、10月19日(金)~12月16日(日)に開催。
Text: 村田 真 (むらた・まこと)
東京造形大学卒業。ぴあ編集部を経てフリーランスの美術ジャーナリストに。東京造形大学および慶應義塾大学非常勤講師、BankARTスクール校長を務める。おもな著書に『美術家になるには』(ぺりかん社)『アートのみかた』(BankART1929)など。