<ゴッホ展 巡りゆく日本の夢 1/20-3/4 京都国立近代美術館>
日本人はゴッホが好きだ。いや日本人に限らずゴッホは世界中の人に愛されているが、なかでも日本人のゴッホ好きは特別だ。なにしろ2、3年に一度は「ゴッホ展」が開かれ、そのつど50-60万人もの大量の観客を動員し、何冊もの関連本が出版されるのだから。こんな国、日本しかないだろう。いま京都で開催中の「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」は、そんなゴッホ好きの日本人に向けた展覧会。
日本人はゴッホが好きだが、ゴッホも日本に憧れていた!
日本のゴッホ人気はいまに始まったものではない。画家の死後20年ほど経た大正時代に、白樺派の芸術家や文学者がその作品や人となりを紹介して以来、もう100年以上たつ。当時日本にはゴッホ作品がなかったので、愛好者はパリ郊外の田舎町オーヴェール・シュル・オワーズまで出かけ、画家の最期を看取ったガシェ博士のもとに遺された作品を見て墓参りする「ゴッホ巡礼」を行ったものだ。もちろん飛行機も団体ツアーもない時代に、だ。
いったいゴッホのなにがそんなに日本人を惹きつけるのか? 強烈な色彩や大胆に歪められた形態など、作品自体の魅力もあるだろう。生前ほとんど作品が売れず、わずか37歳の若さで世を去った悲劇的な人生に惹かれるのも事実だ。
でも最大の理由はおそらく、ゴッホ自身が日本に憧れ、日本を愛していたからではないか。ゴッホの日本に対する熱い思いは手紙のなかでも述べられているが、そんな「日本愛」が作品にも表れ、日本人に親近感を与えるのかもしれない。
だとすれば、なぜゴッホは日本に憧れたのだろう? その答えのひとつは「浮世絵」にある。ゴッホが浮世絵と出会ったのは故郷のオランダ、ベルギーでの修業を経てパリに出てからのこと。それまで暗褐色だった色調がパリで一気に明るくなるのは、印象派との出会いもさることながら、浮世絵の影響が大きいと考えられている。時あたかもジャポニスムの全盛期、浮世絵はいくらでも手に入った。ゴッホも浮世絵を収集し、模写し、カフェで展覧会まで開くほどのめり込む。
左/溪斎英泉《雲龍打掛の花魁》1820~1830年代 及川茂コレクション蔵
右/フィンセント・ファン・ゴッホ《花魁(溪斎英泉による)》1887年 ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)蔵 © Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)
フィンセント・ファン・ゴッホ《カフェ・ル・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ》1887年 ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)蔵 © Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)
《カフェ・ル・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ》は、その浮世絵展を開いたカフェの女主人を描いたもの。この女性はゴッホの愛人だったともいわれているが、タバコを片手に、ビールを脇に置いた気の強そうな彼女の右上に、花魁を描いたとおぼしき浮世絵が認められる。ちなみにカフェの名称「タンブラン」とはタンバリンのこと。なるほどテーブルや椅子を見るとタンバリンの形をしている。
こうして浮世絵を通してゴッホは日本への憧れを募らせていくが、なにを勘違いしたのか、彼は陽光あふれる日本のようだと思い込んで、南仏のアルルに移住する。着いた当日アルルは珍しく雪景色だったが、それもゴッホにいわせれば、「まるでもう日本人の画家たちが描いた冬景色のようだった」と。
このアルルでゴッホは色彩に目覚め、独自の表現を開花させる。明るく平坦な色彩、明快な輪郭線、大胆な構図……もはやゴッホは浮世絵を参照するまでもなく、そのエッセンスを自身の芸術に採り込み、みずからの表現に昇華していく。たとえば《種まく人》。主題はミレーの《種まく人》から借用しているが、右下から左上にかけて画面を縦断する太い幹のモチーフは浮世絵から借りたもの。このように前景に木の幹を配する構図は、ゴッホだけでなくモネやセザンヌも採り入れている(これとほぼ同じ構図の別ヴァージョンが、2/14-5/7に国立新美術館で開かれる「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」に出品される)。
左/フィンセント・ファン・ゴッホ《種まく人》1888年 ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)蔵 © Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)
右/歌川広重《名所江戸百景/亀戸梅屋舗》1857年 中右コレクション蔵 [前期展示:1月20日~2月12日]
実はゴッホが日本に憧れた理由はもうひとつある。日本の画家たちが知性にあふれ、自然とともに生き、愛にあふれた共同生活を送っていると思い込んでいたからだ。これもなにかの勘違いだろうけど、おそらく彼は現実の日本を知らないから想像を膨らませ、日本の画家に自分の夢と理想を託したかったのかもしれない。だとするなら、ゴッホのジャポニスムとは芸術表現上の影響にとどまらず、彼の人生や世界観すら大きく変えるものだったというべきだろう。
フィンセント・ファン・ゴッホ 《画家としての自画像》1887/88年 ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)蔵 © Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)
だが、夢はあくまで夢であり、現実は厳しい。彼は日本のように画家たちの共同アトリエをつくろうと計画し、ゴーガンを呼び寄せて一緒に生活する。ここまではよかったが、個性の強いふたりの画家は激しくぶつかり、ゴッホは精神に異常を来してしまい、共同生活は破綻。以後、入退院を繰り返したあげく、パリ近郊のオーヴェールに移り、ガシェ博士のもとで息を引き取ることになる。ゴッホの墓もここに建てられたため、のちに「ゴッホ巡礼」の地となった。同展には、戦前ここを訪れた洋画家の佐伯祐三や歌人の斎藤茂吉ら日本人がサインした芳名録3冊も出展されている。
ゴッホの作品が高く評価されるようになるのは、画家の死後15年以上たってから。もしそのころまで生きていて(それでもまだ50歳代)日本を訪れる機会があったら、ゴッホはどう思ったか。そして日本人はどれほど歓迎したことか。しかし「日本の夢」は夢として、そのまま残しておかなければならない。
Text: 村田 真 (むらた・まこと)
東京造形大学卒業。ぴあ編集部を経てフリーランスの美術ジャーナリストに。東京造形大学および慶應義塾大学非常勤講師、BankARTスクール校長を務める。おもな著書に『美術家になるには』(ぺりかん社)『アートのみかた』(BankART1929)など。